庭に出ると、朝の陽光が美しい日本庭園を照らしていた。昨夜見た彼岸花は相変わらず季節外れに咲いているが、昼間見ると不気味さよりも美しさの方が際立っている。
「美しいお庭ですね」
「ありがとうございます。先代からずっと、この庭を守ってまいりました」
華の言葉に、私は振り返った。
「先代というと……?」
「旦那様のお父君でございます。もう随分前に亡くなられましたが」
理玖の家族について、私は何も聞いていなかった。そういえば、契約の話以外で彼の私的なことは一切話題に上がっていない。
「そうなのですね……」
庭を歩きながら、私は様々なことに思いを巡らせた。この美しい庭園、立派な屋敷、そして謎めいた主人。全てが絡み合って、一つの大きな謎を形作っているような気がした。
池のほとりで立ち止まり、水面を見つめる。清らかな水に青空が映り、鯉がゆったりと泳いでいる。平和で美しい光景だった。
その水面に自分の顔が映った時、私は一瞬息を止めた。またあの錯覚だった。鏡の中で見たのと同じように、自分の顔が一瞬、別人のように見えたのだ。私よりもずっと気品があって、美しい女性の顔に。
「奥様?」
華の声で我に返る。水面を見ると、そこにはいつもの自分の顔があった。
「すみません、ぼんやりしていました」
「お疲れかと存じます。お部屋でお休みになっては?」
「いえ、大丈夫です」
私は首を振った。まだ謎は何も解けていない。でも、焦ってはいけない。時間はまだたっぷりある。
一年間――。
この奇妙で美しい屋敷での生活を通じて、きっと全ての謎が明らかになるはず。そして、もしかしたら……。
私は理玖が去っていった方角を見た。もしかしたら、彼との関係も変わっていくかもしれない。契約結婚として始まったこの生活が、どんな結末を迎えるのか。
それは、まだ誰にも分からないことだった。
風が吹いて、庭の木々がさわさわと音を立てる。その音に混じって、かすかに鈴の音が聞こえたような気がしたが、それが風の音なのか、それとも昨夜と同じ幻聴なのか、私には判断がつかなかった。
ただ一つ確かなのは、この朝霞邸での生活が、彼女の人生に大きな変化をもたらすということだった。それが幸福な変化なのか、それとも――。
「奥様、お昼の準備ができましたら、お声をかけさせていただきます」
「ありがとうございます、華さん」
私は振り返って微笑んだ。不安もあるが、期待もある。この新しい生活を、前向きに受け入れてみよう。
朝霞理玖の妻として、そして一人の女性として。
庭園に響く風の音と鳥のさえずりに包まれながら、私の新たな物語が、静かに始まったのだった。
その日の夜、華に促されるまま、彼の書斎へと足を向けた。廊下を歩く間も、昨夜の出来事が頭から離れない。夢なのか現実なのか曖昧な記憶が、胸の奥でざわめいている。
「失礼いたします」
重い扉を開けると、書斎の独特な空気が頬を撫でた。机に置かれた行灯の柔らかな灯りが、書斎にゆらゆらと影を作り出している。理玖は既に机に向かっていた。いつものように整った姿勢で、手元の書類に目を通している。
「鈴凪さん。こちらへどうぞ」
顔を上げた理玖の表情は、いつもと変わらず穏やかだった。その奥にある何かを読み取ろうとして、私は思わずその瞳を見入ってしまう。
書斎は想像以上に広く、壁一面に本棚が設置されていた。洋書と和書が混在し、中には見たこともない装丁の古書もある。机の上には高級そうな文具が整然と並んでいるが、どれも使い込まれた様子がない。まるで飾り物のようだ。
「改めて、契約書の詳細を確認させていただきたいと思います」
理玖の声で我に返る。彼は既に分厚い書類を用意していた。口頭で聞いていたものとは違って、より詳細な契約書だった。
「お伺いしていた内容とは、少し違うのですね」
「ええ。正式版です。時間をかけて構いませんので、しっかりとお読みください」
私は椅子に腰を下ろし、契約書に目を通し始めた。書生時代に培った読解力が、自然と働く。文面を追う度に、眉間に皺が寄った。
「一年間の契約期間、形式的な夫婦関係の維持……」
基本的な条項は予想通りだった。しかし、その後に続く条項の数々が、どれも異様に詳細で具体的なのだ。
「秘密保持条項……朝霞家の業務内容、朝霞理玖の私生活、屋敷での見聞を一切口外禁止」
「私生活とは言え、仕事面での都合もありますので、当然の内容です」
理玖の返答は簡潔だった。けれど、なぜだろう。この条項には、ただの企業秘密を超えた何かが隠れているような気がしてならない。
行動制限条項のページで、私の手が止まった。
「理玖の許可なく屋敷の特定区域への立ち入りを禁ずる……地下、離れの蔵」
「これは、安全上の理由です」
「安全上、ですか? それはどんな……」
理玖は一瞬、言葉に詰まったように見えた。琥珀色の瞳が、わずかに揺れる。
「古い屋敷ですから。構造的に不安定な箇所もあります。特に地下は……」
彼の説明は途中で止まった。まるで、言ってはいけない何かを飲み込むように。
「特に地下は?」
私の問いかけに、理玖は微かに唇を引き締めた。
「湿気が多く、足元も悪いのです。女性が一人で立ち入るには危険すぎる」
嘘ではないのだろう。けれど、全てを語ってもいない。そんな印象を受けた。
庭に出ると、朝の陽光が美しい日本庭園を照らしていた。昨夜見た彼岸花は相変わらず季節外れに咲いているが、昼間見ると不気味さよりも美しさの方が際立っている。「美しいお庭ですね」「ありがとうございます。先代からずっと、この庭を守ってまいりました」 華の言葉に、私は振り返った。「先代というと……?」「旦那様のお父君でございます。もう随分前に亡くなられましたが」 理玖の家族について、私は何も聞いていなかった。そういえば、契約の話以外で彼の私的なことは一切話題に上がっていない。「そうなのですね……」 庭を歩きながら、私は様々なことに思いを巡らせた。この美しい庭園、立派な屋敷、そして謎めいた主人。全てが絡み合って、一つの大きな謎を形作っているような気がした。 池のほとりで立ち止まり、水面を見つめる。清らかな水に青空が映り、鯉がゆったりと泳いでいる。平和で美しい光景だった。 その水面に自分の顔が映った時、私は一瞬息を止めた。 またあの錯覚だった。鏡の中で見たのと同じように、自分の顔が一瞬、別人のように見えたのだ。私よりもずっと気品があって、美しい女性の顔に。「奥様?」 華の声で我に返る。水面を見ると、そこにはいつもの自分の顔があった。「すみません、ぼんやりしていました」「お疲れかと存じます。お部屋でお休みになっては?」「いえ、大丈夫です」 私は首を振った。まだ謎は何も解けていない。でも、焦ってはいけない。時間はまだたっぷりある。 一年間――。 この奇妙で美しい屋敷での生活を通じて、きっと全ての謎が明らかになるはず。 そして、もしかしたら……。 私は理玖が去っていった方角を見た。もしかしたら、彼との関係も変わっていくかもしれない。契約結婚として始まったこの生活が、どんな結末を迎えるのか。 それは、まだ誰にも分からないことだった。 風が吹いて、庭の木々がさわさわと音を立てる。その音に混じって、かすかに鈴の音が聞こえたような気
朝の光が薄いカーテン越しに差し込み、私は自然と目を覚ました。 時計を見ると七時を少し回ったところ。昨夜の出来事が夢だったのかと思うほど、穏やかな朝だった。鳥のさえずりが聞こえ、庭からは爽やかな風が吹き込んでくる。「おはようございます、奥様」 身支度を整えて部屋を出ると、廊下で華が待っていた。昨夜見た薄暗い廊下とは打って変わって、朝の光に満ちた明るい空間になっている。「おはようございます、華さん」「お食事の準備ができております。旦那様もお待ちです」 華の案内で食堂に向かいながら、私は昨夜の記憶を辿った。あの不思議な出来事は本当にあったことなのだろうか。明るい朝の光の中では、全てが夢のように思えてくる。「失礼いたします」 食堂の扉を開けると、そこには昨夜とは全く違う理玖がいた。 明るいグレーのスーツに身を包み、新聞を読みながら優雅にコーヒーカップを傾けている。朝の光に照らされた横顔は穏やかで、昨夜感じた得体の知れない雰囲気は微塵も感じられない。「おはようございます」 理玖は新聞から目を上げると、完璧な笑顔で私を迎えた。その瞳は美しい琥珀色で、昨夜見た獣のような縦の瞳は影も形もない。「おはようございます、朝霞様」 私は軽く会釈をして、向かいの席に座った。テーブルには焼きたてのパンと、色とりどりの料理が並んでいる。「よくお眠りになれましたか?」「はい、ありがとうございます」 そう答えながらも、私の心は複雑だった。理玖の問いかけは自然で、まるで昨夜の出来事などなかったかのようだった。本当に、あれは夢だったのだろうか。「今日から本格的な新生活の始まりですね」 理玖はナプキンを膝に置きながら言った。その動作も、昨夜の音のない歩き方とは違って、普通に衣擦れの音がする。「何か困ったことがあれば華に相談してください。私は会社の仕事で出かけますが、夕方には戻ります」「ありがとうございます」 私はパンを一口食べながら、理玖の様子を観察した。朝食を取る姿
眠りについてからどれほど経ったのだろう。私は喉の渇きを覚えて目を覚ました。 枕元に置いた懐中時計を見ると、針は午前二時を指している。静寂に包まれた屋敷の中で、時を刻む音だけが規則正しく響いていた。「お水を……」 私は小さく呟きながら布団から起き上がった。昼間、華に案内された時の記憶を辿りながら、台所への道筋を思い出す。確か廊下を右に進んで、階段を下りた先にあったはずだ。 部屋着の上に羽織を引っ掛けて、そっと扉を開ける。廊下は薄暗く、ところどころに置かれた行灯が仄かな明かりを灯していた。昼間見た時とは全く異なる、幻想的で静謐な雰囲気に包まれている。「静かね……」 足音を立てないよう気をつけながら廊下を歩いていると、大きな窓から月光が差し込んでいるのが見えた。今夜の月はとりわけ美しく、銀色の光が廊下全体を淡く照らし出している。 その時だった。「こんな夜中に、どうされたのですか?」 突然声をかけられ、私は驚いて振り返った。「あ……朝霞様」 そこには月光に照らされた理玖の姿があった。昼間の洋装とは違い、深い紺色の着物を纏った和装姿で、いつもと違った趣がある。月明かりの中で見る彼は、まるで絵画から抜け出してきたかのように美しく、思わず見惚れてしまう。「眠れませんか?」 理玖は穏やかな声で問いかけてきたが、私は違和感を覚えていた。昼間の彼よりもさらに所作が静かで、まるで音もなく現れたような――。「いえ、少し喉が渇いて……お水をいただこうと思いまして」「そうですか」 理玖は微かに頭を下げた。その動作も、やはり音がしない。着物の裾が擦れる音すら聞こえないのだ。 月光が理玖の横顔を照らしている。彫刻のように美しい輪郭、長い睫毛、整った鼻筋。私は、その美しさの中に人間離れした雰囲気を感じて、無意識のうちに一歩下がってしまった。「この屋敷は古いので、慣れるまで時間が掛かるかもしれません」 理玖の声は優しかったが、なぜかその言葉に深い意味が込められているような気がする。まるで、慣れなければならないのは建物の古さだけではない、とでも言うように。「そう……ですね」 私が答えた時、理玖がゆっくりとこちらを向いた。 月光の下で見る理玖の瞳は、昼間よりもずっと深く、神秘的だった。そして――。「……!」 私は息を呑んだ。一瞬、理玖の瞳が縦に細くなった
部屋の襖を閉めた瞬間、私はようやく一人になれたことに安堵のため息をついた。 奥の寝室には既に布団が敷かれていて、すぐに休めるようになっている。布団は私がこれまで使っていたものと違って、ふかふかと厚みがあって柔らかそう。 床の間に飾られた花の甘い香りが疲れを癒してくれる気がした。箪笥や化粧台に触れてみると、温かい木のぬくもりが伝わってくる。 借金取りに追われていた数日前の生活とのあまりの落差に、現実感が湧かない。「本当に、これが私の部屋なの……」 呟きながら、私は持参した小さな竹籠の中から、形見の一つである手鏡を取り出した。銀の縁に繊細な菊の花の彫刻が施された小さな鏡は、曾祖母のちよが遺してくれた大切な宝物だった。 鏡面に映る自分の顔を見つめながら、私は今日一日の出来事を振り返った。 朝霞理玖という人は、確かに紳士的で礼儀正しい。容姿端麗で、言葉遣いも丁寧。けれど、どこか近寄りがたい雰囲気がある。まるで美しい氷の彫刻を見ているような、触れれば凍えてしまいそうな冷たさを感じるのだ。「あの方は、どうして私を選んだのかしら」 私は鏡に映る自分の顔を改めて見詰めた。特別美しいわけでもない。家柄も今では没落している。理玖ほどの男性であれば、もっと相応しい相手がいくらでもいるはずなのに。 夕食の席で交わした会話を思い出す。契約結婚の条件を淡々と説明する理玖の声には、感情の起伏が一切感じられなかった。まるで商談でもしているかのような、事務的な口調。曾祖母との約束だと言っていたけれど、曾祖母が亡くなって長い今、そんな約束など反故にされてもおかしくもない。「朝霞様の正体や仕事の詳細を詮索しない、か……」 その時の理玖の表情が妙に印象に残っている。一瞬、目の奥に何か暗いものが宿ったような気がしたのだ。正体、という言葉の使い方も気になった。普通なら「私生活」や「仕事の内容」と言うところではないだろうか。 私は鏡を大切にしまいながら、曾祖母に対する感傷に浸った。「曾祖母様、私は正しい選択をしたのでしょうか」
柱時計から夕刻の七時を告げる鐘が鳴ると、若い女中が私を迎えに来た。「奥様、お食事のご用意ができております」 彼女もまた、足音をほとんど立てずに歩いた。廊下を進みながら、私は改めてこの屋敷の静寂さに驚いていた。二十人もの使用人がいるというのに、まるで誰もいないかのように静かなのだ。 案内された食堂は、屋敷の他の部屋と同様に和洋折衷の美しい空間だった。長いテーブルには西洋風の椅子が並び、その上には繊細な和食器が美しく配置されている。部屋の四隅には提灯が下がり、壁には風景画が掛けられていた。 そしてテーブルの上座に、理玖が座っていた。「お疲れ様でした」 理玖が立ち上がって私を迎える。「お部屋はいかがでしたか?」「とても素敵なお部屋をありがとうございます」 私は丁寧に頭を下げた。「華さんにも大変よくしていただいて……」「それは良かった。華は長年この家に仕える古株ですから、何でも相談してください」 理玖は私のために椅子を引いてくれた。そのさりげない仕草は完璧に紳士的で、作法に一点の曇りもない。「ありがとうございます」 席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。季節の野菜を使った煮物、新鮮な刺身、上品に味付けされた焼き魚。どれも料亭で出されるような見事な品々だった。「口に合いますでしょうか?」「はい、どれもとても美味しいです」 理玖に問われ、私は正直に答えた。「こんなに豪華なお食事をいただいて、恐縮してしまいます」「妻が遠慮する必要はありません」 理玖は静かに微笑むけれど、その笑顔は、どこか表面的に見える。「これからは、ここがあなたの家なのですから」 妻、という言葉に私の頬が熱くなる。例え契約上のことだとしても、まだ慣れない響きにいちいち戸惑う。食事の間、理玖は完璧すぎるほど優雅だった。箸の持ち方、食べ物を口に運ぶ所作、すべてが絵に描いたような美しさで、まるで舞台の上の役者を見ているようだった。「朝霞様」 私は意を決して口を開いた。「改めて、契約の内容を確認させていただけますでしょうか?」 理玖の手が一瞬止まった。それから彼は箸を置き、私を見つめた。「もちろんです。確認は大切ですから」 理玖の声は相変わらず穏やかだったが、その瞳には冷たい光があった。「まず、あなたには一年間、私の妻として振舞っていただきます。対外的には、
「それでは、奥様のお部屋からご案内させていただきます」 華に導かれて足を踏み入れた屋敷の内部は、外観以上に息を呑むほど美しかった。玄関から続く廊下には、洋風の絨毯が敷かれているにも関わらず、天井には和風の格子が組まれている。ガス灯と提灯が共存し、西洋の油絵と日本画が同じ壁に飾られていた。「珍しい造りでございましょう?」 華が私の様子を見て微笑んだ。「旦那様のご趣味で、東西の美を調和させた設計になっております」「とても素敵です」 私は率直な感想を口にした。なにもかもが珍しく見えて目が離せない。「まるで夢の中にいるようです」「そのお言葉、旦那様がお聞きになったら喜ばれるでしょう」 廊下を歩きながら、私は何とも言えない違和感を覚えていた。この屋敷には多くの使用人がいるはずなのに、人の気配が薄いのだ。時折、廊下の向こうを誰かが通り過ぎるのが見えるのだが、足音が全く聞こえない。「あの……」 私は遠慮がちに声をかけた。「こちらにはたくさんの方がお勤めなのでしょうか?」「はい。この屋敷には二十人ほどの使用人がおります」 華は振り返って答えた。「皆、長年この家にお仕えしている者ばかりです。奥様のことも、きっと大切にお守りするでしょう」 大切にお守りする――その言葉に込められた響きが、単なる主人への敬意以上のものに聞こえた。まるで私を何かから守らなければならない事情があるかのように。「華さん」 私は思い切って尋ねた。「もしかして、私のことをご存知だったのでしょうか? 先ほどから、初対面とは思えないようなお顔をなさっていて……」 華の足が止まった。振り返った彼女の表情には、明らかな動揺があった。「いえ、そのような……」 華は言葉を濁し、それから僅かに俯くと、深く息を吐いた。「申し訳ございません。実は、奥様の曾祖母様のちよ様を存じ上げておりまして」「曾祖母を?」 私は驚いて声を上げた。「はい。ちよ様には、若い頃この屋敷でお世話になったことがございます。奥様のお顔立ちが、ちよ様にそっくりでいらしたもので……」 曾祖母のちよが朝霞家と関わりがあった――。それは初耳だった。理玖が私を見つけ出せたのも、そういう縁があったからなのだろうか。「そうだったのですね」 私は華の表情を見つめた。彼女の目には、懐かしさと同時に、何か言えない秘密を抱え